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FORUM No.06(2007.3.19)

松村秀一
「200年住宅」と住宅産業の未来

LECTURE01

「200年住宅」の問題点

松村秀一──「200年住宅」は、去年の夏頃、自民党が発表した政策テーマで、今年2月に、元官房長官の福田康夫さんが座長を務めていらっしゃる勉強会から、「200年住宅」についての講演を頼まれました。今日はその時の講演内容を少し膨らませてお話します。
200年住宅という概念自体は、私はかなり荒唐無稽な概念だと思います。おそらく「200年」というのは「長持ち」の象徴として使われた言葉だと思いますが、私は依頼された講演では「200年住宅を標榜するとしたら現代における社会的な意味は何か」について一緒に考えて欲しいという趣旨でお話ししました。
松村秀一氏


現在日本には住宅は5400万戸ぐらいあり、世帯数が4700万世帯くらいなので、住宅数は世帯数をはるかに上回っています。ですから600万から700万の空き家が存在していることになります。実際空家率は12パーセントを越えていて、このような空家率の住宅ストックを持っている国はほかにありません。つまり住宅数は十分あるわけです。その5000万戸以上の住宅のうち、建設年代で区切ると、昭和50年代以降に建てた住宅が60数パーセントになっています。昭和50年代以前の日本はいわゆるオイルショック前の高度経済成長期にあたります。昭和50年以降の生活は、例えば携帯電話が出てきたり、パソコンを持つようになったり、家庭用ビデオの普及などいろいろなことがありましたが、もう戦後的な貧しさから脱却して上昇していこうとする時代ではないわけです。住宅も昭和50年以前は激しく変わっていますが、昭和50年代以降はそんなに大きく変わっていません。こういう問題で論点になるのは、昭和56年に建築基準法の耐震基準が大きく変わったことです。新耐震と言われていますが、それ以前と以後の建物では則っている基準が違うので、昭和55年以前の建物は今の基準法に照らせば、耐震改修をしなくては適法ではないものがあるわけです。ただ、昭和56年以降に建てたものに限っても既にストックの半分以上を占めています。だから概括的に申しますと、過半数を占める住宅は十分な質を持っていると言えます。
これらの住宅を快適で豊かな生活の場として長く有効に利用し続けることに寄与できるように、産業と技術を方向づけることが今とても重要な課題です。ですから「200年住宅」は今から建てるのではなくて、むしろ産業も技術も、今ある質的に十分な住宅を長く使っていく方向に向かうことで初めて社会的に意味があるテーマになると思います。「200年住宅」などと言うと、すぐにこれから200年もつ住宅をつくろうとなるわけですが、それはあまり重要な今日的テーマではないと思います 。

日本の住宅の特殊性

「200年住宅」がテーマになる背景には日本の住宅の寿命が短いことがあるかと思います。2、3週間前、研究室にある一般向け雑誌の記者から電話がかかってきて、「日本の住宅の寿命が短いと言われますが、こういう理由で短いのでしょうね」という確認的な取材を受けました。僕は寿命が短いと吹聴しても仕方ないし、そういうことを記事にしても意味がないからと、違う話をしたのですが、結果的にその雑誌を見ると、10分ぐらい話したうちの5秒ぐらいだけが彼の書きたいストーリーを補強するために使われていました。これは日本の住宅の寿命に関するある種の先入観の表れの典型的な例です。僕は、もし日本の住宅の寿命が短いとしたら、何故なのかを考える必要があると話したわけです。ものとして粗悪だから他の国の住宅と比べて短命なので建て替えないといけないのかというと明らかに「ノー」です。僕は工業化住宅を研究テーマの一つにしてきたので、こういうことに関心を持つ多くの欧米の研究者を積水ハウスやダイワハウスなどの工場に連れて行ったことがあります。すると必ずどの調査団も「工場でここまで住宅の部品をつくってしまうとは!」とびっくりするわけです。しかも大量につくっている。あのような巨大住宅メーカーは日本にしか存在していません。例えば積水ハウスもダイワハウスも年間数万戸の住宅をつくっていますが、日本には年間1万戸以上つくっている住宅メーカーが5、6社あるわけです。年間1万戸以上つくっている住宅メーカーがひとつの国に数社存在していること自体が日本以外ではありえません。量に驚くのと同時に、工場でものをつくる仕組み、技術に驚いて、素晴らしいと絶賛していきます。外装材などでも窯業系の外壁材、いわゆるサイディングをあれほど発達させている国は日本だけで、他の国はもっと素朴な素材を使っています。だから素材にもびっくりしている。ただ価格が高いのでまたびっくりして帰っていきますが。価格は別にして、海外では考えられない質の均一性を持ったものをつくっていると勉強しに来るわけです。日本の企業の方、国土交通省や自民党の方の中には、住宅は欧米のほうが進んでいて、日本は粗末な家に暮らしていると今でも思っている方がいるようですが、事実はそうでない。そんな日本の住宅が他国よりも短い年数で取壊されているしたら、別に理由を探さなければならない。例えば「ゆく川の流れは絶えずして」という『方丈記』に代表される精神文化があります。つまり古くから、人生は流れる川のようなもので、片時も止まっていない不定形で、かつ仮のもので、今見えているものはほとんど価値がないという人生観があります。だから人生の価値をわかった人は雨が漏るような庵で友達と酒を飲みながら詩を吟じたりしている、これが到達点であるという価値観があるわけです。こういう古くからある文化が微妙に影響しているのかもしれない。

fig.1


もっとはっきりしていることは、土地と建物を別個の財として認識するという国際的にきわめて特殊な法制度があることです。これは日本と韓国だけだと思いますが、普通は土地の上に建物が建っているとこれらをひとつの財と考えます。登記もひとつで、売り買い、貸し借りも必ず一体です。しかし日本では土地と建物は別々に登記の対象になっています。土地は土地、建物は建物という言い方がごく普通に使われていますが、明治10年頃に今の法体系ができたときにそうなったようです。明治時代は脱亜入欧で、法律はフランス、医学はドイツからというふうに万事欧州から取り入れたのですが、この問題だけがヨーロッパと違うものになりました。その理由は想像するしかないのですが、江戸時代のいろいろな既得権とのすり合わせで日本独自の仕組みがつくられて、土地と建物が別々の財になったのだと考えられます。法概念上土地と建物は別なので建物は壊しても平気だというように、思考パターンに影響を与えたわけです。
区分処理法で有名な丸山英気先生とこの問題について話したとき、ヨーロッパにおける土地と建物が一体の財だという感覚は、建物は土地だという感覚として理解すればわかりやすいと言われました。つまりヨーロッパでは、建物を壊すことは土地を壊すことだから不自然なことで、低い建物を壊して高い建物を建てるのは土地が増えるわけだから自然ではないという感覚がある。ヨーロッパでは壊してまた同じ大きさの建物を建てることがしばしばあります。日本ではそういうことはありえず、壊したらより大きい建物を建てるパターンしかないのですが、ヨーロッパではそのままの大きさでまた建てます。それが自然だからだと丸山先生はおっしゃっていたのですが、なるほどと思いました。このことが、建物は消耗的なもので、土地は永久に残るという考え方を、日本人に植えつけているひとつの理由だと思います。

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