プロローグレクチャー

●ライフスタイルの変容/住スタイルの変容
松村──最近考えていることなのですが、家族が以前とまったく変わってきています。離婚した旦那と新しい旦那と妻と子供が一緒に住んでいるという形態やグループホームというのもあります。そして少子高齢化もそれに重なってくる。結局家庭という言葉が象徴的なのかもしれませんが、あるまとまりで住むことに住宅が対応してきたから、家というのは均質なものでもよかったんです。けれども、6人くらいで世田谷の民家を借り切って、他人同士で住む「松蔭コモンズ」というNPOも出てきたり、多様な形態が出てきています。多分そういう場合にはわざわざ新築の家を建てることはなくて、余っている家を共同生活を送れるように改造したり、あるいは140平米の家によい家具を置いてひとりで気持ちよく住んだり、倉庫を40平米くらいのオフィスに改装したりするわけです。これらはそういう動き、つまり家族形態の変化と非常に密接な関係があって、従来どおりの暮らし方や働き方であればリノベーションなどもなかったのだけれども、そこに大きな変化が起きていると思います。
今日の話でちょっと思い出したんですが、2年前に翻訳されたデイヴィッド・ブルックスの『アメリカ新上流階級ボボズ』という本があります。「ボボズ」というのはブルジョワとボヘミアンを合わせた造語です。どういうことかと言いますと、最近は金持ちがボヘミアン的な趣味で生きることがひとつのかたちになっていて、例えばビル・ゲイツはジーパンでスニーカーをはいているけれど、そのスニーカーは1足何十万円もする。昔は金持ちはイタリア製の高級な革靴を履くところを、最近はそれを履かない。住宅の中ならやたらに本格的なキッチンがあり、包丁もプロ並みに揃っているけれど、ジーパンで料理をしているような感じです。そういうものが、日本ではどうかわからないですが、アメリカの新しい富裕層のひとつのライフスタイルとして、「ボボズ」という名前でとらえられる現象がある。これは建築とは関係はありませんけれども、これからはそこをターゲットにマーケティングしていかなければいけないなということです。
それで今日の中谷さんの紹介された事例を見ていると、ブルジョワやボヘミアンは欧米的な分け方ですけれども、日本ではもっといろいろ混じっている。そしてそれがいまままでとは全然違うんだと思えました。例えば学生とで飲んでいると、学生は僕らのことを「先生」と呼ばない。でも、決して抵抗して「さん」と呼んでいるわけではないんです。今日の話から、いままでの人間関係や上下関係がぐちゃぐちゃになっていくような世界が、住宅の需要者の世界でも発生しているんだなと思いました。だから、単にストックがあったり、空室が出てきたからリノベーションやコンバージョンになるというだけではなくて、住むことや働くこと、それからそこに関わる人間が大きく変わってきていることの現われだと再認識した次第です。

中谷──私もそう思います。リノベーションした住宅を1998年に販売したんです。オープンハウスにはたくさんの人が来たのですけれども、その以前にも私はディヴェロッパーとして物件を売っていました。また営業マンもしていたので、来た人を着ているもの、髪型、靴などから一瞬で判断するのですが、そんなにはずれることはなかった。バブルの頃は本当にわかりやすくて、金があるから買うというものでした。ところが98年頃からはずれることが多くなったんです。カジュアルですごく若く見えた人が、実は40歳を超えていて、年収は2500万円だというような人がいたりしました。でも見慣れると、普通に見えるけれども実は高いものをちょっと身につけている。だから車ならカローラから始まってクラウンにいく、住宅ならワンルームに始まって次にもう少し広いところにいくという、いままでの住み替えの双六のようなわかりやすいヒエラルキーが変わってきていると感じています。
当初の私どものお客さんでリノベーションされている方は、実は成功者ばかりでした。というのは、金融機関の不動産の担保評価は、年収ではなく不動産担保しか見なかったので、その中古物件しか見てくれなくて、リノベーションした分の価値を認めない。だから、不動産を買って改修するのにローンがつかないので、当初は本当に苦労しました。結局改装費は現金で払わなければならないので、1000万円からの現金をもっている人がやっている。一方で会社に入社して2年目のサラリーマンが3000万円以上の借金をして新築マンションを買えてしまう。この矛盾をすごく感じていたのですが、現在はそこが変わってきています。

●リノベーションとモダニズム
太田──いまのお話は、現在家をもとうとしている人たちのなかに、すごく実験性に飢えている層がある、というお話ではないかと思います。一方で一戸建てで建売、もしくは都心居住でマンションを求める人がたくさんいますから、そうした実験的な層というのは基本的には珍しいと思います。ですが難波先生が、中谷さんが紹介された事例にモダニズムとの距離を感じてブルーになったと言われたのですが、僕はちょっと違う気がしていて、むしろ実験としてのモダニズムを非常に忠実にトレースしている層があるのか、と心強い気がしました。イームズの椅子がスライドにも何回か出てきましたけれど、それはモダニズム回帰の記号でもあるわけですよね。つまり住み手がイームズの頃の生活に対する提案を感じ取って、それをやりたいという憧れをもっていると思うんです。そのときのモダニズムと難波先生がおっしゃっているモダニズムのどこに距離があるのか、読み解くとしたら鍵はそこではないかと思います。

松村──経団連の住宅版のような団体で住団連というのがあるんですが、3年位前に住団連からライフスタイルというテーマのホームページを作ってもらえませんかと言われて、作っているんです。それを始める際、勉強するつもりでライフスタイルをインターネットでキーワード検索してみたのですが、グッズや髪型に関連したことばかりが出てくる。スペイン風の暮らしと言うと、スペイン風の小物を売っているお店が出てきたりして。結局はいま日本でライフスタイルと言っているのは「もの」なのではないか。そして暮らし方は以前のとおりです。家でビールを飲んでプロ野球中継を見ているのに、小物だけがスパニッシュになってちょっとラテンなライフスタイルと言っている程度のものだと思ったんです。だから、モダニズムもそのうちのひとつにすぎなくて、スパニッシュなどと同列で、「モダニズムなライフスタイルでクールに決めてみませんか」と言うとそういう家具が出てくるようになっている。だからライフスタイルというのは、ものを買って自分を演出する道具として語られている状況が一方ではある。住む空間や場所は単なる小物とは違って、かなりの時間を使うところです。ところがそれ自体が今日紹介にあったようにここまで来ているということは、小物から空間、時間がライフスタイルというべきものに近づいているという動きになっていると感じました。だから、モダニズムはあまり関係ないのではないかな。
難波先生がおっしゃった、そのような動きに対して建築家としてどう関わっていくかという問題は非常に難しくて、僕は究極的にはこの世界ではそういう職能はまったく要らないと思っている。つまり、利用者のクリエイティヴィティが高まっていくとすると、もっと生活よりのプロダクトをデザインするという方向になっていくと思います。そうすると従来の意味での建築家の領域は小さくなって、究極のパトロン仕事のようになると思っています。

難波──僕はそれを直感的に感じてブルーになっているのかもしれませんね。松村さんが言われたような考え方は、歴史的にはすでにモダニズムの初期からあって、中谷さんはアール・デコと言ったけれども、アール・デコもモダニズムの一種です。それは単純化して言うと、ヨーロッパのモダニズムとアメリカのモダニズムの違いだと思います。『近代建築のアポリア』という本の中で、八束はじめさんは、ヨーロッパ発のモダニズムはアメリカとソヴィエトに行って、まったく別の形態をとったと言っています。ヨーロッパ発のモダニズムの倫理的、思想な側面がソヴィエトに行き、そこではモダンなスタイルは捨てられてプレモダンなスタイルが復活した。一方、アメリカに行ったモダニズムはイデオロギーや思想を捨ててモダンなスタイルだけになった。これはとてもうまい説明だと思います。どちらが正統なモダニズムとは言えない。一方は思想的・倫理的モダニズム、他方は形式的・美学的モダニズムです。この分類で言うと、松村さんが言っているのは明らかに後者です。しかし建築家としては、両者を分けたくないわけです。だから松村さんが言ったことに逆行するのだけれど、僕としては自分がもっているモダンな思想と形式の延長上で、中谷さんが紹介されたような動きを拡大し、加工し、折衷することによって、モダンな美意識のなかに取り入れたいと思っているのです。

松村──位置づけたいわけですね。

難波──そう、リノベーションをモダニズムの延長上に位置づけたい。そして自分の仕事の範囲に吸収したい。しかしそれはなかなか大変で、明確な方法が見えない。だからブルーになる。
それから松村さんは建築家は要らないと言っているけれど、それはどうも納得できない。本当かなと思う。そのあたりを中谷さんはどう考えているのか、パトロン仕事でいいやと思っているのか、そのあたりが僕にはよく理解できないので、中谷さんの仕事に飲み込めないところがあるんです。

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