Renovation Report 2007.4.20
都市的な広がりをもつパブリック・スペース
ニューヨーク「ハイライン」レポート
木内俊克

イントロダクション
Introduction
南北に長いニューヨーク州マンハッタンの中心にあたるミッドタウンの南、ハドソンリバーに面したウェストハイウェイから5番街までにわたる西部に位置し、1990年代以降、ニューヨークのアートシーンの中心地として知られるようになったチェルシー地区。現在、そのチェルシー地区を南北に貫通するかたちで縦断している旧高架鉄道(通称「ハイライン」)を線状のパブリック・スペースとして保存・転用するプロジェクトが進行している。
同プロジェクトは、完成すればニューヨークの主要な交通拠点であるペン・ステーションから、ジャヴィッツ・コンヴェンションセンター、チェルシー地区、最新のレストラン、バー、ブティックが集中するミートパッキング地区を地上交通に遮断されることなく結ぶことになる、都市的な広がりをもつパブリック・スペースとして注目を浴びている。今回はハイラインが保存・転用されるまでに至った経緯、プロジェクトの概要と現況、および今後の展望についてレポートする。
左:高架鉄道上の風景(2000年) ©Joel Sternfeld, 2000
中:14丁目の街並みとハイライン 著者撮影
右:10番街を斜めに横切る 著者撮影

サイト
Site
ハイラインは1929年から34年にかけて、ニューヨーク州、ニューヨーク市、ニューヨーク・セントラル・レイルロードの共同事業であった、全長20.8kmにおよぶ貨物鉄道・ウェストサイドラインの一部として建設された。
全線のうち、35丁目以南、おもに10番街と11番街に挟まれた街区を中心とした工場と倉庫群が立ち並んだ工業地帯であったチェルシー地区西部(現在、その多くはギャラリーへと転用されている)を南北に縦断する部分は、地上約5.5mから9mの高さに持ち上げられた複線の高架鉄道として建設され、この部分がのちにハイラインと呼ばれるようになった。

ハイラインの際立った特徴は、道路の上に平行して覆いかぶさるのではなく、街区の中心をとおり、建築物を貫通して設置された点にあった。このことにより、高架鉄道でありながら、道路上をまたぐ部分は最小限に抑えられ、同時に貨物の目的地である工場・倉庫内に直接乗り入れ、荷物の搬出入の効率化を図るという画期的なものであった。
しかしながら1950年代におけるトラック輸送の増加にともない、60年代初頭にかけ南端部が解体されると、80年にはジャヴィッツ・コンヴェンションセンターの建設にともなう北端部のルート変更がなされた後、35丁目以南の全線が廃線。以降、ニューヨーク市の所有のもと、91年にはさらにそれまでの南端部にあたった5街区にわたる部分が解体され、南側終点をガンズヴォート・ストリートに面する現在の長さ、約2.3kmにまで縮小された。
左:マップ 著者作成
右:ビルからの見下ろし。街区を貫通している様子がわかる
提供=Friends of the High Line

プロセス
Process
廃線となった1980年直後、ハイラインの建つ高架下土地の使役権を購入した権利者団体によるハイライン解体の主張があったものの、チェルシー地区の住民であったピーター・オブレッツの法廷をとおした運動により、ハイラインは解体をまぬがれた。しかしながら、その後はハイラインの運用に対する積極的な動きは見られず、マンハッタンの只中にあって解体さえされなかったものの、事実上放置された時期がつづいた。
以上の流れにあって、それまでの停滞した状況を一新する、保存・転用に向けての重要な一歩となったのは、1999年、現在においても同プロジェクトの中心的な運営機関であるフレンズ・オブ・ザ・ハイライン(以下、FHL)の設立であった。
FHLは明確にハイラインの保存およびパブリック・スペースとしての再利用を目的として設立された非営利組織であり、当初はジョシュア・デーヴィッドとロバート・ハモンドの2名により設立されたものだった。

FHLは、ハイラインをパブリック・スペースとして保存・転用するために、「レール・バンキング」という法的な手続きを利用できる可能性があることをニューヨーク市議会のメンバーをとおして知った。同市議会のメンバーは、この「レール・バンキング」によるハイラインのパブリック・スペース化を公的に、かつ慎重に検討することをニューヨーク州および市に求める決議案を作成、FHLは同決議案に対し数にして100をこえる市民団体の支持を集めることに成功した。結果、2001年4月、ニューヨーク市議会に提出された同決議案は見事採択され、ハイラインがパブリック・スペースとして保存・転用されるための法的な基盤がここで整った。
同年に、前ニューヨーク市長ガリアーニは、同決議案採択の流れに反して市によるハイライン解体の承認を遂行したが、FHLはこれを起訴、上記決議案が求めるところの公的な検討の不在を理由として、2002年3月、ニューヨーク市に勝訴した。
さらに、FHLは専門家によるハイラインのパブリック・スペース化にともなう、市への経済効果の試算を行ない、プロジェクト完遂後に期待される税金歳入の増加により、保存・転用の費用は十分にまかなえることを証明した。

これら一連の動きから、同年12月、市はついに決定的な政策転換を行ない、決議案に沿うかたちで「レール・バンキング」のプロセスをスタートさせる。「レール・バンキング」の基本的な概念は、将来において鉄道としての再利用の必要性が生じた際のために、構造的に鉄道としての利用が可能である状態を保ちながら、別の用途として構造体を利用する、というものである。

以降、プロジェクトは急速に本格化し、2003年1月には、転用のさまざまな可能性を広く一般から求める公開アイデア設計競技が開催され、36カ国から、720チームが同競技に参加、同年7月にはニューヨーク市議会よりプロジェクトへ1,575万ドルの基金が寄せられた。
さらにハイラインの動きと連動して、同年9月、ハイラインが南側終点で接するミートパッキング地区が、ニューヨーク市景観保存委員会により歴史地区として制定され、またニューヨーク市都市計画課からは、ハイライン周辺地区の新たな居住及び商業利用を促すリゾーニングが提案された(同提案は2005年6月をもってすでに承認されている)。

2004年3月にはハイラインの転用プロジェクトのデザインチームを決定するための設計競技が開催。52チームからスタートし、4チームのファイナリストによる提案の一般公開展示を経て、同年10月にデザインチームが決定され、フォールド・オペレーションズ(Field Operations)およびディラー・スコフィディオ&レンフロ(Diller Scofidio + Renfro)の共同設計チームがデザイナーとして選出された。

プロジェクト
Project
(Field Operation,
Diller Scofidio + Renfro)
ハイラインは22街区を貫通し、最も狭いところで約9mから最大18mの幅をもち、地上5.5mから9mの高さをもつ。持ち上げられた鉄道の床面積は全体で27,000平米に至る。
構造体はジョイントにリベットを用いた、19世紀末から20世紀前半特有の装飾的なディテールをもつ鉄骨造であり、基本的に、連続する門型のフレームのあいだに架け渡されたI型鋼の梁の上にコンクリートスラブが打設されており、その上にレールや諸設備が設置されたかたちをとっている。

また、現在までハイラインの大きな特徴となってきたのは、廃線以来高架線上で育ち続けてきた雑草や野生の植物群である。
街区の中心を建物に挟まれるようにしてとおり、幹線道路から切り離されていること、地上から持ち上げられた高架鉄道であることとあいまって、マンハッタンの喧騒とは対極の、静かで自然の溢れる個性的な空間がハイラインの上には育まれてきた。

パブリック・スペースへの転用に際しては、ハイラインの歩んだ歴史──貨物鉄道として活躍した時代、廃線としてひっそりと眠り続けた時代──を反映したこの独自性を全面的に受け継ぎ、ときにより強調しながら、最低限、新しい機能としての歩行者用通路、および必要な入り口を挿入するというコンセプトが強く打ち出された。
高架鉄道上、デッキ・植栽の計画概要/ガンズヴォートストリートから15丁目まで
©Courtesy The City of New York, 2004.
主要な構造体である鉄骨は、元来貨物鉄道の荷重を想定して建設されたものであるため、歩行者のみのパブリック・スペースの構造体としては十分すぎる強度を備えており、またきわめて状態も健全であるため、一切の補強工事は行なわれていない。ただし、建設当時の鉄骨の状態を再現する意味で、後代に施された仕上げおよびペイントをすべてはがしたうえで、黒色に近い暗緑色のペイントで統一してコーティングされることとなっている。
また南側終点のガンズヴォート・ストリートからハイラインへあがる入り口周辺部のように、現在高架下が壁で囲まれた建築物として利用されている箇所を、通りに開けたパブリック・スペースとして転用するケースでは、鉄骨のまわりに施されている防火被覆を除去したうえで、他の部位と同様に暗緑色のペイントでコーティングしたあと、鉄骨あらわしとすることが計画されている。
左:プロジェクトイメージ。ガンズヴォート・ストリートからの眺め
©Courtesy The City of New York, 2004.
右:鉄骨の詳細 著者撮影
植栽に関しては、コンクリート床スラブおよび新しい排水設備を施工した後、計画された植栽を植え込んでいくことになっているが、ハイラインの既存の植生にならい、原生の種を混合した粗野で、かつ多様な植栽が計画されており、植栽とともに一部高架下にはガラス越しに露出された池を併設するなど、鳥類などの生息を促す生命力のある環境を実現することが視野に入れられている。

また、歩行者用通路には木製のデッキが連続して設置される。最小幅は約2.4mで、鉄道幅にあわせてゆるやかに幅を変え、枝分かれしたり、合流したりしながら、さながら自然の小川のような流線的なデッキがデザインされている。歩行者用のベンチは、単一のものばかりではなく、さまざまな人数のグループを想定した、変化のあるサイズのものが、意匠上デッキと統合されたかたちで、全体をとおして計画されている。

ハイラインへの入り口は、主要な通りと交差する地点に設置される、地上レベルとハイラインをつなぐ階段とエレベータで構成されるが、街区の中心を貫通するハイラインの特性を活かし、ハイラインに隣接する建築物から、直接ハイラインへとアプローチする入り口の建設も予定されている。
隣接建築物がハイラインに直接入り口を設ける際には、同建築物は地上レベルにも公共の入り口を設け、その二つの入り口を建築物内で結ぶことが義務づけられており、その際、公共の通路に面してレストランなど、なにがしかの公共のアメニティー施設を併設することも義務づけられている。
現在工事が進行中の20丁目以南では、地上からハイラインへとアプローチする入口は、南側終点のガンズヴォート・ストリートと14丁目からとなっている。現在建設が確定している隣接建築物からの入り口は1カ所のみとなっているが、南側終点に隣接して建設が予定されているホイットニー美術館の新館など、今後、隣接建物からの入口が数カ所増えることが見込まれている。

ハイラインは利用者に友好的で、かつ持続的なパブリック・スペースを想定しており、ハイライン自体の商業施設としての利用は最小限におさえることが計画されているが、チェルシーの地域性を重視し、アートインスタレーションに関しては、特定のギャラリースペースを設けるのではなく、むしろハイラインそのものをより多様性に満ちたアートを生み出すコンテクストとみなして、積極的に設置を推進していくという前提に計画がすすめられている。
プロジェクトイメージ。パブリック・スペースのデッキと植栽
©Courtesy The City of New York, 2004.

展望
Prospect
現在、ハイラインは段階的な開発を旨に、20丁目以南の第一期の工事が進行中であり、同部分に関してはすでに主要な清掃・解体作業が終了し、鉄骨仕上げの塗り直し作業に差し掛かっている。
以降、コンクリート床スラブ工事、排水および防水工事がつづき、入り口部分、デッキ、植栽を含む工事がそのあとに予定されている。第一期の竣工は2008年夏までを目処としている。
周辺地域の自発的な開発も連動して起こっており、南側終点に隣接するホイットニー美術館新館を筆頭に、地域全体の活性化には目覚しいものがある。

ハイラインの段階的で持続的な開発は、いままでの歩みがそうであったように、周辺の地域の特性を重視し、相互にその価値を高めあうことで、時間をかけながらも着実にその価値を育んでいくことの重要性を教えてくれる。その地域が時間をかけて育んできたものは何かを見出すことが、地道だが、たしかな開発の原動力となることを示唆している。
また、忘れてはならないのは、現在こそ市の政策に組み込まれ成長した同プロジェクトであるが、はじめにハイラインに価値を見出し、その可能性を育てあげてきたのはほかでもないハイラインを愛した個人の集まりであったことである。今後プロジェクトがゆっくりと進んでいくことで、いままでの歴史の先に何が育まれ、どういった価値がつむぎだされていくのか、その行く先を期待しながら、これからもプロジェクトの進展を見守っていきたい。
34丁目から29丁目あたりまでの見下ろし。左手にハドソン・リバーが見える
著者作成

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