Renovation Interview 2008.3.25
建物の保存/運動の保存──保存運動のサステイナビリティをめざして
論考]「もの」の一包みとしての「建物」|倉方俊輔
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「もの」の一包みとしての「建物」|倉方俊輔
「建物」はどこまで「建物」なのだろうか? 室内の調度品や庭の木々、そこにまつわる思い出や所作……あるものを「残したい」と思ったとき、それは当然のことながら、法規的、物理的な「建築物」と一致するはずはないのだが、どこまでが「建物」に属するものであって、なにを残すためになにを変えるべきかということになると、きれいな解答は見つかりそうもない。しかし、「保つ」にしても「存する」という言葉にしても、生き生きと持続させるような意味が含まれるのだから、そんな即座に答えが出ない問いへの配慮なくして、「保存」もありえないのではないか。《旧安田邸》の活動は、そうした根本的な保存の問題に思いを馳せさせる。
《旧安田邸》の室内のしつらえや雛飾りなどの年中行事は、「建物」に付加したものではなく、「建物」そのものであるように感じられた。インタヴューのなかで特に印象に残ったのが、「例えば洗剤やスポンジなんかも隠してしまうのではなく、まだこの台所は生きているのですよということで見えるところに置きたい」という多児さんの言葉だった。「建築物」を過去のままに固定すべきとは考えられてはいないが、だからといって、なにをやってもよいというわけでもない。目の前にあるのは、いわれをまとった調度品や周辺環境であって、それらは確固とした実体でありながら、真価のすべてはまだ発見されていない。その意味は手を入れ、使うことによって、跳ね返されてくるようにわかる。なにがここで必要なマナー──しつらえや所作──であるかも判明する。「たてもの応援団」の方々は、そんな「建物」とのやり取りを愉しんでいるかのようだ。基準は過去ではなく、現在にある。
ここで「建物」は、さまざまな「もの」が集合したパッケージと言ってよいだろう。個々の「もの」と対話することで、それらを包含している総体としての「建物」の性格が立ち現われる。こうして考えてみると、《旧安田邸》の「建物」と「もの」との関係は、『谷根千』の「まち」と「ひと」との関係と同形である。変化する「もの」や「ひと」のあり方を浮かび上がらせ、編集することで、「建物」や「まち」は他と異なる個性を持った領域として実感されるようになる。どこまでがひとつの「まち」に属するのかも、あらかじめ自明のものではないのだ。法律上の定義とは別の求心力を得ることができれば、「建物」も「まち」も持続力のある活動へと開けていけるだろう。「あそこはもともと品格のある建物(まち)だから……」というのは簡単だ。しかし、見逃してならないのは、その背後にいる編集者の重要性である。
こうしたかたちの「保存」に、もしアキレス腱があるとすれば、持続可能な保存のマナーが、持続不可能な人的な資質と無関係ではないことだが、広がりゆく活動はそんな懸念を払拭するに十分なものだった。

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