Renovation Interview 2009.3.31
コモンという実験──建物をひらく可能性
[座談会]岡部明子×大島芳彦×磯達雄×新堀学
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神奈川県葉山に建つ《シュレム・羽仁邸》は、いま、ブルースタジオの手によって新しいかたちに生まれ変わろうとしている。「葉山コモンズ・プロジェクト」を立ち上げ、「コモン」をキーワードに、地域や社会へむけて建築をオープンにする活動をこれから展開していくという。今回は、同プロジェクトの現地調査に同行し、ブルースタジオの大島氏にプロジェクトの目的についてお話しをうかがった。また、建築家の岡部明子氏にもご参加いただき、座談会形式でコモンの可能性について議論した。

変化する岡部邸──使い手の履歴/空間の履歴
新堀学 本日は葉山にある、《シュレム・羽仁邸》にお邪魔しています。
ブルースタジオの大島さんと僕ら「葉山コモンズ・プロジェクト(仮称)」のメンバーがここに集まったのは、こちらのオーナーの方から、この建築作品について、もっと社会に認知してもらい有効活用するためのより面白い提案をしてくれないかという相談を大島さんが受けたことが発端になっています。通常は不動産の有効活用といえば売却、建替えを考えると思うのですが、ここでは所有者が自分だけの所有物(占有物)という枠をはずして考えてみて良いという猶予をいただいたことで、今回は「コモン」というキーワードを意識しながら、人々に解放していく、いろいろな人が参加する受け皿を形作っていくことを考えています。それによって所有している建築を自分だけでは使い切れていない人がうまく建物を開放すれば、建物も生き、ひいてはオーナー側が持つ資産価値的な側面も好転するかもしれない、それが今回の企画意図の発端です。
そこで前半では、幾度も増改築しておられる岡部さんの御自邸を巡って、どういうふうに建築が使われてきたかという話をしていただきたいのです。また、後半では「コモン」という概念についても議論してここでの活動へのヒントを得られればよいと思っています。
まずは岡部さんのご自宅の沿革から。築何年ぐらいのものでしょうか。どれくらい住んでいらっしゃるのですか。
岡部明子 築43年で、私が最初にその家に住んだのも43年前です。家は、子どもの頃からたびたび改修しています。そもそも、母方の両親の家があった土地に、その離れとして建てられた家で、はじめは40平米もない大きさだったと思います。
新堀 離れが建てられたのはどうしてですか。
岡部 私が3歳の時、父母と私の3人家族のためです。細長い敷地の南側の奥に極めて小さい家を建てました。1階には居間兼食堂とキッチン、それからトイレをつくりました。お風呂はありません。1回目の改修は昭和43年頃だったと思います。西側と東側に増築しました。ほんのわずか1間もないような部屋を1階と2階につくったのです。しばらくはこのまま使っていましたが、私が大学生になったころに、祖父が亡くなって、私は祖母と一緒に母屋に住むようになりました。離れには父母弟の3人が住みました。その後、祖母が亡くなったことがきっかけで、私の両親が母屋に引越し、離れは空家になりました。
もともと離れには父親の書斎があったので、書庫兼物置としてしばらく使われていましたが、いまから7年前に私が住むようになり、改築を行ないました。面積はまったく増やさず機能を変更しました。離れは、南側はすぐに敷地境界線が迫っていて非常に暗い家だったので、北側を大きな窓にして北側に開くようにしました。私は家事をする時にしか家にいないので、1階はすべてキッチンにして、以前キッチンのあった場所に風呂をつくりました。
数えると、6回目も改築しています。先日、サンルームをつけて、部屋も若干増築しました。母屋も最近改築しました。
新掘 その7年前に離れに住もうとした時も、家全体を新築することも検討されるタイミングだったと思うのですが、その時に、改築を選んだのはなぜでしょうか。
岡部 物理的な条件と経済的な条件です。まずはお金がなかった。私は、借金をして家をつくるのは間違っているという信念があります。借金はその対象がなんらかの価値を生むということでなければ、経済原理に反するわけですよね。土地神話があったといっても健全な経済の問題ではない。住むという行為が、そもそも付加価値を生まないのであれば、投資の対象ではないと思っています。借金せずに費用をまかなえれば新築したかもしれないですが、その選択肢は私にはありませんでした。
もうひとつは物理的な条件です。細長い敷地の離れなのでアプローチが狭い。ですから、母屋を壊さずして離れは壊せないのです。家族から母屋を壊す気はないと言われましたから、離れをもし建替えようとすると、法的な問題とともに工事のしづらさが問題になりました。
こうした物理的・経済的な理由によって改築を選びました。制約条件から創造性が生まれるということです(笑)。
磯達雄 改築にあたって、出入りの大工さんがいたのですか。
岡部 私が子どものころまでは、近所の家をまとめて建てているという町場の工務店がありました。うちの最初の改築くらいまでは、全部同じ大工さんがやっていました。工務店は新しい建物をつくるためにいるというよりは、町のトータルケアをしている感じでした。近所の友達の家に遊びに行った娘が、うちとまったく同じ天井だと気づいて驚いたほどです。食器棚を買って置く場所がないから、その分だけ増築したこともあったくらい、家具感覚で家をいじっていました。
昭和30年代にできた木造住宅は、近所を見ていても、家族構成において、自由に改築したり、離れをつくったりしているのが当然だったと思います。いまでこそ、家は人生で一番大きな買い物と言われるけれども、私が子どものころはそうではなかったと思います。
新掘 少し話が離れますが、昔の人はどうして自由に変えるという考え方だったのでしょう。家は「買うもの」という意識が強い人がいまは多いように思いますが。
岡部 うちも、家の改築の記録が家族の履歴になっているほどですから、その自由さを不思議に思っていませんでした。ただ、ここ7年というのはかなり確信犯的なところがあるというか、変わったことをしている自覚を持ってやっています。物的・経済的に特殊な条件が重なったことを逆手にとって、面白いことをしてやれという思いはあります。
新掘 建築家の岡部さんだから物理的・経済的な問題を逆手にとり乗り越えられたわけですけれど、普通の人だったらどうしていると思いますか。
岡部 普通の人だったら、すごく寂しい2DKくらいのアパートなどに暮らすのではないですか。実際、そういった物件も探しました。しかし、お金がなくても、それなりに誇りある豊かな生活を実現するためになんとかしようという思いもありました。特に1回目の改築の時は、自分で払える範囲のなかで、満足のできる生活空間をつくろうという思いが強くありました。»
岡部明子氏

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