プロローグレクチャー
●サービス産業としてのSIの可能性

▲太田浩史氏

太田――もともとSIという言葉が基本的に持っていたのは、一種の効率論だったのではないでしょうか。建築のどれだけを共有部分にして、どれだけを個別にすればトータルとして効率がいいのか、という議論です。私もこの前、NEXT21を拝見したのですが、感じたのは効率性とはまた別の部分で、それはまさに今、議論になっている点かと思います。数百万の部品をうまく作ったから、いろいろと応用が可能であるという言い方は、効率論から外れた話ではないでしょうか。日本の都市居住の状況のなかで、居住のヴァリエーションが多様に実現できると話が変わっていった結果、肝心の効率論が置き去りになりつつあるのではないかとも思います。NEXT21は豪華なプロジェクトなので論理はつながっているんですけど、効率論からいうと、まったく別の展開を見せていると思います。
都市論的に考えると、共有と個別のどこに線を引くかというテーマは、例えばエネルギー使用の効率化などのように、基本的なテーマだと思います。SI論が捉えつつあるのは、居住サービスという都市機能の共有と個別化なのではないかと思っています。例えば松村先生が触れられた子育てなどに対しては、集合住宅でお母さんたちが交替で赤ちゃんたちの面倒を見るというサービスの共有があったりします。それは集合住宅の効率性を良く表したものだと思うのですが、日本のSIの話は、まずはこうした集合することの効率性という議論が抜けてしまっていると思います。それからもうひとつあると思うのは、子育てのようなソフトへの視点です。SI住宅については、基本的にサービス産業的な発想が求められるのではないでしょうか。変わり続ける人の暮らしをフォローすることは大変な作業であって、それに物質的に対応するとなると、相当なマネージメント能力が必要となる。その物質フローがサステイナブルなものであるならば、更にきめ細やかなマネージメントが必要になるでしょう。それをどのように提供していくのか、興味があるところではあります。

松村――今、自分の住んでいる分譲マンションで大規模改修の話がでています。スケルトン・インフィルでいくと、大規模改修はスケルトン・マターで、住戸の中の、例えば作り付けの収納というのはインフィルというわけですが、そんなことはなかなかありえない。例えば自転車置き場や駐車場が空いているからここをつぶして収納をつくろうとなると、自分のところに収納をつくる必要ないという話になるわけです。おそらくビジネスの上でも、受け手側からすると、管理組合のやる大規模改修と個別のリフォームを分けて考える理由があまりない。バスユニットを換えるなんていうのはもっとも典型的だと思うんですけど、みな同じような浴槽がついていて、そのレイアウトを変えずに浴槽を換えたいという需要は、ある比率で必ず出てくるから集約したほうがいいんです。それがおそらく管理組合で大規模改修、スケルトンレベルで話をしている時に関連して出てきて、くっついていく。そうするとインフィルだけ独立して、その住戸のリフォームだけ営業をかけて、それを商品化していく独立性が果たしてありがたがられることなのか。むしろどういう形態かわかりませんが、太田さんが言っていたようにサービスについでにくっついている、あるは切れ目がないサポートのサービスもあるしインフィルのサービスもあって、管理会社みたいなところから産業化されていくような気もします。

難波――でもそれは問題のすり替えのような気がする。普通の設計をする時だって、住まい方を設定してプランを考え、次に設備をどうするか、構造をどうするか、それから柱梁をどうするかと考えるのだから、それと同じです。スタートが生活の仕方の設計から始まるといって、でも最後はやっぱりオーダーを持ったものとして、あとでメンテナンスもしやすいものに分解していって秩序をつくっていくのが設計だから、全然矛盾していない。

松村――新築だとフルセットですから、例えば全部で100種類の仕事が必要になると、その100種類をそろえてつくり上げるわけです。ところが、今現実に住んでいるマンションをどうするかという時は、フルセットで仕事を発注するわけではなくて、100種類の中のある部分を直せばなんとかなるという話です。

難波――それはわれわれの生活で、暑いと感じがたら冷房をつけるのか、ヒートアイランド現象の問題があると考えるのか、そういう問題と同じではないかな。

太田――例えば千代田区に若者のベンチャー企業を一カ所に集めたSOHOのビルがあるのですが、それは会議室やキンコーズのようなオフィスサポートなど、スケルトンにサービスを付加した場所を提供しています。そこにインフィルとして借り手がパソコンを持ち込んで仕事をする。僕が効率論ではないかと言ったのは、住まい手としては、さっと行って住めるという利便性の方が、バリエーションの多様性に優先するように思えるからです。そうでなければ、集合して住むことを積極的に選択する理由が少なくなってしまう。一戸建てのように住まいを最初から定義するのではなく、定義の作業の少なさこそ、スケルトンという集住形式が選択されるではないか。そう考えていくと、スケルトンはそれなりのインフラとして相当なサービスをしないと成立しないと思うわけです。

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