プロローグレクチャー

●これからの都市開発とリノベーション
──狭義の建築(ことづくりではなく物づくりしか考えない)で言うと、麻布十番のようなものは保存するしかないのか。保存するというのはそっとしておくこと、つまり触らないことです。物づくりをしている人が、触らないということは自分から物づくりを否定していることになる、ほんとうにそれでいいのか、そうではないのではないか、ということをちゃんと議論しないといけない。そうしないと、単純に残すのか、壊すのかという話になってしまいます。また麻布十番みたいなものを残したときに、何を残すのか。建築なのか、職人としてのおじさんの腕なのか。おじさんの腕をそのまま残したとしても、じゃあ使っている鉄板も古くなければ意味がないのか。ある部分はものすごく違う視点、重層な視点で建築家が議論をしないと、狭義の都市計画的なことは語れるかもしれないけれど、広義の都市計画、街を語れなくなってしまう。こうした複雑な時代だからこそ、建築家も目をそらさないで、保存や再開発についてももっと議論したり、身のある議論を楽しむことができる雰囲気がつくれるとよいと思います。

難波──麻布十番にある小さな建物も自然発生しているわけではなくて、超高層と同じように実際は誰かがつくっているわけです。僕は学生時代に都市計画に対して大きな疑問を持ったことがあります。ある駅の駅前計画をするとします。普通の駅前の街にはパチンコ屋や飲み屋があって、少し大きい駅だと大体キャバクラがあるのですが、それらを計画するというのは何だか変な感じです。なぜならパチンコ屋やキャバクは計画されるものではないからです。都市計画の概念からは、そういうものは排除されている。つまり都市計画には暗黙の倫理コードがあるわけです。だから郊外に人工的に計画された街は嘘っぽい。でも時間が経つと誰かがいろいろなものをつくり始める。つまり計画からはみ出した余剰の部分──いわゆる盛り場はそういう過剰な部分です──は決して上から計画されるのではなく、自然発生的に見えるけれど、明らかに誰かの意志によってつくられていくわけです。今の都市計画の概念には、そういう部分を取り込むシステムがありません。それが都市計画に対する不信感に繋がっているのだと思います。磯崎新さんはかつて「計画は終わった」と宣言しましたが、それはそういう意味です。都市計画系の学生は、路地や町家に対して憧れがあり、路地を設計しようする。しかし上に言ったような意味で、路地は設計するものではないので、おかしいと言っても、皆きょとんとしている。計画するというレベルがちょっと違うんですね。昔、篠原一男が民家を評して「苔が生えたような建築」と言いましたが、そういうものと建築家が計画するものとのせめぎ合いで悩んで、その結果都市計画から逃げていった人たちが沢山います。この問題はまだ解決していないと思います。今の社会の動きは、すべてを計画しようとしているわけで、そのように隅々まで計画的につくられた街には誰も行かないと思います。

松村──僕が何となくこういうものに違和感を感じているのは、バブルだからです。バブルの頃こういうことあったではないかと多くの人が思っている。あの時地上げ屋が走り回ったけれど、今は空きビルになって、不良債権化してその処理で大変だという日本全体の痛い記憶があるのです。超高層が建っていくのは、イメージとしてそれと結びつく。大きな開発はバブリーだ、森ビルはバブリーだということを多分言うと思うのです。ただ、それを嫌がっていてもやはり開発は進むわけで、その時に、開発や建物のタイプと、そこでのアクティビティや行為がワンパターン化していることが問題としてある。例えば、テナントを呼んでくる時も、こういう企業とこういう企業なら話しがつきますといって呼んでくる。つまり開発をしようとしていることと、そのタイプやお金の出方、入ってくるものが一本線でしかないけれど、もっと多様に組み合わせられる可能性があるだろうし、その多様性については考える余地があると、勝手に納得しました。

太田──僕は、どんどん似てくると思います。寺社の境内が基本的に同じなのと一緒だと思います。

松村──三菱地所の丸の内マンハッタン計画との違いはどうなんですか。、

──丸の内マンハッタン計画の場合は1haでしか考えていないので、余地がないという点が違います。昔の1haの大きさの中で考えている。それから道路は再変更しないという考え方です。

太田──どんどん似てくる時に、差異は周辺で生まれると思います。麻布十番は実は保存されたのではなく街の文脈が強化されたところで、地下鉄が二つできて、青山霊園のトンネルとつながり、もともとあった通りの機能が拡張されました。六本木が点だとすると、線の部分が機能し始めた。僕は、できる前からよく麻布十番に揚げおかきを買いに通っていたのでわかるのですが、全然様子が違います。装いは確かに同じで、同じ人がやっているけれど、皆の顔が違う。それは、とても大事なことだと思う。

難波──それは、予測されたものか、計画されたものなのですか。

太田──予想以上の効果だったのではないですか。ですから、いずれ古川の上の首都高速道路がなくなった時にこのアクティヴィティを芝までどのように繋げるか。芝には同じような高層ビルが建っていますが、境内を繋ぐ門前町がまた大事な役割を持つだろうと考えられます。

──そうかもしれない。例えば、六本木ヒルズが鎌倉の鶴岡八幡宮で、麻布十番の商店街が小町通りみたいなものです。だから、そういう関係は計画しないけれども、その計画によって何か変わるということを私たちは考えています。

太田──そうやって街の文脈というのはできると思います。

●表参道ヒルズのコンバージョン
会場──表参道の同潤会アパートをコンバージョンなどをしないで立て替えるというのは、何か戦略があったのでしょうか。

──それを決めた頃は私は森ビルにおりませんでしたが、聞いたところによると、40年前くらいからリノベーションするという話は起こっていたのですが、誰も実現できなかったようです。それで、森ビルにお鉢が回ってきて引き受けることになった。それで、実際コンバージョンといっても、構造的にもたないなど、いろいろ問題があった。建物としては懐かしいけれど、オーバーかもしれないですが、例えて言うなら瀕死の重傷を負っている人を、支えて立たせているような状況でした。それでハードとして残すのではなくて、都市の記憶になるものを残したい、ということです。そのために坂のようなスロープをつくったり、中庭があった風情を立体的な庭で再現するというような手法を選びました。地価が高いですから、地下六階、地上六階といった、超高層を横にしたようなやり方でつくる。また誰が保存にお金を出してくれるのか、という問題もあります。記憶を残して、お金が出るような仕組みをつくって、何か残していく、という手法を取らざるをえなかったというのが正しい言い方だと思います。

難波──僕はオープン前に行ったのですが、表通り側は建物が敷地一杯にせり出していて、敷地の端に水が流れていた。店の前に水が流れているのはすごいと思った。よくあんなことができたなと思いました。一方で、明らかに安藤忠雄さんは計画しなかっただろうけれども、予測せぬ副次効果ができているのは裏通りです。裏通りは見違えるようによい空間になりました。間違いなくメイン通り匹敵する通りになると思います。目ざとい人たちは、すでにいろいろな店をつくり始めています。かつての裏通りは陰気で影のような空間だったけれども、今は幅が広がり歩道もついて、斜線制限で階段状になった建物が緑化されているので、とても気持ちのよい通りになりました。これによって「裏原」のように一気に奥へ開発が広がっていくと思います。

太田──テレビ東京のワールド・ビジネス・サテライトに森社長が出ておられ、「今までは人が都市を選ぶ時代だった。これからは都市が人を選ぶ」と仰って、これは大変なことになったと思いました(笑)。表参道は本当にシャンゼ・リゼみたいになって、ここでいろいろな文化を創り出してきた若者を疎外してしまうのではないでしょうか。つまり、門前町がそのまま境内として凍結されて、都市のひとつの装置になっていく。難波先生が仰るように、そうするとまた別のストリートが門前町の賑わいを担っていくのだろうと思います。

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