Renovation Interview 2009.3.20
太郎吉蔵からの問い──都市は誰のものか?
[インタビュー]五十嵐威暢 聞き手:新堀学+倉方俊輔
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北海道滝川市におけるNPO「アートチャレンジ滝川(A.C.T.)」の活動は、同NPOの中心メンバー・五十嵐威暢氏の44年ぶりの帰郷をきっかけとしてはじまった。2001年に五十嵐氏らが提案した「滝川市芸術公園都市構想」をもとに、この活動を契機に改修した太郎吉蔵を拠点としながら街へと広がり、100年にもおよぶ壮大な構想として現在も徐々に進行している。今回は、活動のいきさつから今後の展望までを五十嵐威暢氏にうかがうとともに、喫茶店《街》の移築プロジェクトに携わる建築家・五十嵐淳氏に、プロジェクトの現状とこれからのプラン、さらにはまちづくりや都市についての考えを語ってもらった。

44年ぶりの帰郷
新堀学 まず、太郎吉蔵の改修や、アートチャレンジ滝川(A.C.T.)という活動について、その始まりからの概要を教えていただけますか。
五十嵐威暢 太郎吉蔵は、北海道の滝川市というところにあって、僕はそこで1944年に生まれました。小学校卒業と同時に東京へ出てきましたから、当時の同級生と会うこともなくなってしまいました。ところが、いまから9年前に、滝川市の公園に彫刻をつくる依頼が市からあり、それをきっかけに帰郷し、44年ぶりに小学校時代のクラスメイトに再会することができました。それがすべての発端です。そこで、僕が今まで何をやってきたのかという話になり、デザイン業の後に、最近は彫刻をつくっているということを話しました。そうしたら、ぜひ地元の人達に紹介したいということで、講演会を催してくれたり、当時の市長(前市長)を訪問させていただく機会を得て、市長から、滝川市のマスタープランの説明を受けたりしました。
当時、滝川市内の国鉄の官舎跡を地域の公園にする計画が進められていて、僕はそこに設置する彫刻を依頼されていたのですが、最初の予算と見積もりのあいだにだいぶ開きがあった。これは駄目かなと思っていましたら、1年くらいのあいだに再度議会を通して、予算を倍にしてくださったのです。このがんばりにはぜひ応えなければいけないと思い、工場に掛け合い、つくり方を工夫するなどして、結局は当初考えていた高さ21mの道内で一番背の高い鉛筆のような彫刻を実現させました。
実現した彫刻
撮影=藤原晋也
市長から説明を受けた市の再生プランは前時代的な拡大思考のプランだったので、予算を倍にしてくれたことへの恩返しの意味も込めて新たにプランをつくりました。それが「芸術公園都市構想」です。壮大な夢のプランで、実現しようとしても100年はかかってしまうものです。公園設計を担当したランドスケープアーキテクトの斉藤浩二さんと、再会した同級生で建築家の神部あや子さんの3人で構想をつくりました。
そうした流れのなかで、同級生たちが「44(ヨンヨン)の会」を立ち上げてくれました。1944年生まれの皆が、僕を市民に紹介する活動をするためです。祖父である五十嵐太郎吉(1879-1937)がつくった石蔵をコンサートに使わせてくれないかという話があったのはその頃です。
100年かかるプランを実現するためには、定期的になにかイヴェントをやらないと忘れ去られてしまうだろうと考え、「五十嵐アート塾」を始めました。3カ月おきにゲストを招いて、1時間ほど自由に話してもらったあと、ゲストとの対談を聞いてもらうというものです。
アート塾が始まった頃、崩れかけていた太郎吉蔵を修復してアート塾やコンサートにも使える多目的ホールのような文化施設をつくりたいとの声が上がりました。ただ、相当な改修になるので費用をどうしようかと。寄付を集めるといっても、この不景気では大変なことだと話していたら、市役所に勤務しているアート塾の仲間が、北海道のアトリエ活性化事業という助成金の最後の一枠が残っていることを教えてくれた。ただし、それは費用の半分しか助成されず、さらに、助成を受けるためにはNPOを結成しなければならないという規定もありました。この話を聞いたのが夏の終わり頃で、NPO登録や申請書の作成はぎりぎりだったのですがなんとか申請しました。半年間で残りの改修費用を集めるのは不可能と言われましたが、結果的には集めることができました。
改修設計は、蔵の雰囲気を大事に扱って改修してくれる方がいいなと思い、中村好文さんにお願いしました。お会いしたことはなかったのですが、電話して、相談に伺いました。そうしたら、「じつは来週、旭川に行きます。これは縁だから途中下車して見てきますよ」とおしゃってくださいました。当日、携帯に電話がかかってきて、「いま、石蔵に来ましたけど、想像以上に良い蔵ですね。これ、すぐやりませんか」と。このプロジェクトはボランティアになることを念押しして、お金が集まったら実行することにしました。
五十嵐威暢氏
新堀 僕らも、建物の保存に関わっていて思うのですが、率直に言うとなかなかお金は集まらないですよね。集まらないで涙をのんでいる団体がいくつもあるのですが、このケースはよく集まったと思います。
五十嵐 出会った人達が素晴らしかった。彫刻以外の仕事をいろいろな人のルートから3ついただきました。当時、僕はロサンゼルスに住んでいたにもかかわらず、2、3カ月のあいだに3つも札幌の仕事をいただいた。これは、故郷が呼んでいると思い、全部引き受けることにして帰って来たのです。札幌の仕事は、JR北海道による札幌駅南口の再開発でした。JRタワーのシンボルマークのデザイン、世界一大きな駅時計のデザイン、展望室に設置する大きなテラコッタレリーフの制作です。そのプロジェクトを取り仕切っていたのが、JR北海道の常務だった臼井幸彦さんで、臼井さんと仲間が素晴らしかった。臼井さんのおかげで、よい人間関係ができて、蔵の改修も、NPOの活動も、そういう人たちを巻き込んで進んでいきました。NPOは総勢250名くらいで、会員とは別に150名の応援団もあります。6割かそれ以上が道外の人です。3、4割の道内の人のうち、半分以上が札幌の人ですから、滝川のメンバーは全体から見れば1割です。»
太郎吉蔵、外観
撮影=酒井広司

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